自己啓発本に頼るのではなく、「本当の意味で」自分を変える方法

"自己啓発本"はあなたに幻想を見せる

高校生のとき、僕は自己啓発本が好きだった。日頃ビジネスなどしない。「〇〇倍成果を出すための読書術」とか「人生変えよう」みたいなよくある自己啓発本。それを駅前の本屋で買ってきては、何冊も読んでいた。

お察しのとおり、僕はただ本を消費していた。投資ではなく、消費だった。自己啓発本を読み、その場限りの優越感に浸っていた。その結果どうなったかというと、口ばかり達者で行動するのが怖い人間になっていった。

自己啓発とは麻薬のようなものだと思う。読後は成功した気になり、ハイになる。何かを成し遂げた気になる。でも、本当の自分は本を読む前と、何一つ変わらない。少しばかりの優越感は、副作用として自信を奪っていった。

つまるところ、自己啓発本は消費だった。憧れを抱いていた僕を優しくなだめ、ときには叱咤し、ハッピーエンドに導いてくれた自己啓発本。彼らは僕を思うようには変えてくれなかった。


自己啓発にはすべておなじことが書いてある」

大学1年生の冬。僕は塾講師のアルバイトをしていた。校舎は、東京地区の中でも地域の拠点となる大規模な校舎だった。そんな拠点を率い、皆から畏れられ、慕われる塾長がいた。彼はやり手だった。頭が切れ、リーダーシップがある。若くして経営幹部になることを有望視されていた。そんな彼から、自己啓発本に関する考察をきいたことがある。

「君は本読むのとか好きなの?」

「好きです。自己啓発とか好きで読んじゃいますね」

「あーそうなんだ。自己啓発本は20代で読みつくした。だって、書いてあることはどれも同じなんだもん。そのことに気付いて、読むのやめたよ」

「は?あ、そうなんですか?」

「そう。ふふふ」

そういって、彼は書類チェックに戻った。いや、この場で教えてくれよ!と思った。ただ「そんなものか」と思うばかりで、何も言うことがなかった。

仮にそのときに教えられたとしても、当時の僕は理解できなかっただろうと思う。


自己啓発の、何が同じ?

その日から、ある問いが僕の中での課題となった。

なぜ、人は自己啓発本を読んでも変わらないのか?

・ 

5年が経った。

いまの僕がタイムマシンを使って過去の自分に耳打ちしてあげるとすれば、次の2つだ。

  1. すぐに消える自己啓発本たちの本質は「変わりたくないけど変わりたい顧客へ向けた成功体験ビジネス」であること
  2. 本来の意味で自分が変わるとは、モノを見る視点が変わる(抽象度が上がる)ことであること

つまり、自己啓発本「人が変わる」とはほど遠いもので、むしろ「変わりたくない」人を対象にしたビジネスだということ。

では人が変わるとは、どういうことなのか。それが2の「視点変化/抽象度上昇」になる。

これについて、幾人かのオピニオンリーダーの考えに共通点が見つかった。

「あっと驚く未来を、ストーリーにして描いてみれば?」

「そうしたら、今まで見えなかったものに気付くはずさ」

「そうだね、たとえば『視点の高い、より根本的な問題点』が見えるはずだよ」

「現状では達成しえない目標を持つことで、スコトーマ(盲点)をはずすこと」

「今までには気付きもしなかった方法が見えてくる」

「これがコンフォートゾーン(あたりまえのレベル)を引き上げるということ」

  • 勝間和代の「起こることはすべて正しい」
  • スティーブジョブズの「点と点が線で繋がることを信じよう」

これらを総括すると「理想の自分をまず思い描け。それに到達するには理想の自分の視点を先に得よ。現状から未来へのストーリーを描け」というカンタンなステップにまとめられる。

だから本当の意味で自分が変わるとは、自分の物を見る視点が変化するってことであり、世界が変わるってこと。

じゃあそのためにどうしたらいいの?ってことに関しては、ぜひ上記の人たちのありがたい言い分を聞いてみてほしい。

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神田昌典フューチャーマッピング公式:FUTURE MAPPING | futuremapping.com

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もしかすると、イエスの教え「求めよ、さらば与えられん」すら理想の自分ありきってことか?と思えてくるほど。

 
時間がなくなったので、今日の記事はここで区切らせてもらうことにして
 
続編メモ
  • 功法則はなぜ万人に当てはまらないのか?万人に当てはまる唯一の法則とは
  • ポイントは変化点。
  • イレギュラーな意志の力が変化を引き起こす
  • 何をやるにしても抽象度が大事だという話
  • 抽象度に付随するのがロジカルシンキングやコミュニケーション力
  • あなたにとって最後まで味方してくれるパートナーは、あなた自身の意思
意外とボリュームでそう。
気になった方スターでも押してくれたら僕は喜びます
ではまた次回!

名前も知らないお姉さんに「営業」を教えてもらった話

携帯ショップで販促のバイト。タブレットとフォトパネルを売っていた。

タブレットとフォトパネルの営業をやっていたとき、ぜーんぜん売れなかった。時給は高かったけど、1つも売れなくて、ただの給料泥棒だった。
店長やスタッフさんは丁重に扱ってくれたけれど、彼らの期待に応えられないから、ひたすら気分が重くなっていった。
アルバイト全体の平均契約数は、日に2-3件だと聞いた。対して僕の契約数は、毎回ゼロ。来る日も来る日も契約がとれなくて、バイトが終わったあとの報告メールではいつも「申し訳ありません」と謝ってばかりいた。
やっと1つ売れたとき、それはそれは思いがけない売れ方をした。

10秒で、1個売れた

カウンターで手続き中の、とあるお姉さんに話しかけたのだった。

ひたすらメリットを並び立てる僕に、お姉さんはたった一言「いいですよ」といった。
一瞬、聞き取れなかった。状況が飲み込めず困惑する僕に、お姉さんは「買ってから使い方考えますよ」とだけ言って、ささっと契約を終えて帰っていった。
10秒で、フォトパネルが売れた。

訳の分からない売れ方をした。

買ってから使い方を考えるなんて、そんな買い物があるのだろうか。
確かにぼくは「月々〇〇〇円で…」と説明した。だけど、リスクも何も考えなかっただろうか。一言、「要りません」と断れば良かったじゃないか。
ペイフォアワード(映画)を見て慈善の連鎖に加わろうとしたとか、僕の口臭がくさすぎて1秒たりとも話したくなかったとか、色々原因を考えた。
本当に、訳の分からない売れ方をしたとおもった。でもとにかく1個、売れたのだった。それはあまりに唐突で、思いかげない結果だった。

顔も名前も分からないお姉さんから、「営業」を教えてもらった。

もちろん営業の全体を学べたわけではないけれど、ぼくは今までの自分より成長した気になっていた。ものを売るということは、僕にとっては目的だけど、買い手にとっては手段なのだと気付いたからだ。
 
お姉さんがその日、どんな想いでフォトパネルを買ってくれたのかは、今となっては分からない。
けれど、きっとお姉さんは「見るからにアルバイトで、手続き中の私にさえ声をかけてくるほど切羽詰まっていて、営業が100人中最下位レベルでド下手で可哀そう」なあの日のぼくに、手を差し伸べてくれたのだとおもう。
 
人が10人いれば10通りの生き方や考え方がある、ということを僕は学んだ。
その人生の文脈や物語の中で「ぼく」が登場する。ぼくは、思い通りに貢献できないかもしれないし、活躍できないかもしれない。だけど、思いがけず、想像もできないところから、助け舟はあらわれた。

僕がやっていたのは、押し売りだった

一本も契約を取れない僕は、意気消沈していた。
あんなに知識を覚えたのに。あんなに提案プロセスを追ったのに。
あんなに営業の本で勉強したのに。あんなにできると思っていたのに。
そんな焦りと、購買動機の押し売りのせいだった。
だから僕は、一本も契約がとれなかったんだ、と気付いた。

スーパーマンはいない。けど、確かにお姉さんは僕のスーパー(ウー)マンだった

世界はなんでもできるスーパーマンだけで成り立つわけじゃなく、たくさんの「ぼく」や「わたし」でできている。もちろん僕もそうだ。
凡人は、すべて思い通りになるわけじゃない。
でも思い通りの結果が出なくたってそれでよくて、前向きに行動してさえいれば、中には手を差し伸べてくれる変人だっている。
つまり僕が言いたいのは、他人任せにするってことではなくて、自分の想定する範囲外にも成長の種は転がっているんだ、ってこと。

次はぼくの番(おまけ)

こんな小さい出来事を、いまだに僕は覚えている。
ここまでで、話は終わりだ。
 
最後におまけで、僕の話を。
ちいさいことだけれど僕は、出会った人にちょっとした笑いを提供できるように心がけている。コンビニの店員さんやカフェの店員さんには、生きたやり取りができるように心がけている。こんなのただの自己満足だけれど、毎日ブルーな気持ちの店員さんが、1cmでも「接客って面白いかも」と思えるきっかけになったらいいと思って。
 
追伸:
最後まで読んでくれてありがとう。
そんな暇なあなたにはぜひ「ペイフォワード」という映画をお勧めする。
アメリカで社会現象にもなった「スタバのお客さんが後ろの人にドリンクをおごったら、その親切の連鎖が数十分も続いた」というのがペイフォワード。お姉さんから僕へ、僕からあなたへ、ってね。。
 

「痛いヤツ」の心理学

いちゃいちゃカップル。

あいつイタいよねー、みたいに思うことってありますよね。
あるいは言われたことあるかもしれません。
 
今日わたしは電車内で、イチャイチャカップルを発見しました。後ろから女の子が抱きついて、彼氏のお腹をさわさわしたり、胸をさわさわしたりしてました。僕が彼氏なら辛抱たまりません。しかも僕の座っている目の前でしたので、一言つけくわえるならば、僕もちょっと辛抱たまりませんでした。
とはいえ、ただ興奮してるばかりの僕でもありませんでした。
あまりに彼女がしつこいし、この行為をみていてやっぱりどこか「ちがうなー」と思ったのです。

感じる違和感

ぼくはおもいました。
「ちがうなー」というこの感情を「嫉妬」と呼ぶほどには僕はモテなくありませんし(ということにしておく)、
「公共の場の風俗を乱す気か!」内山田教頭よろしく叫ぶほど、僕は風紀を重視しておりません。ルールの押し付けはそもそも好きじゃなくてですね、はい。
 
じゃあ何?なんで胸の奥がソワッとするの?と電車に座りながら考えてました。

イタいのは見る側の心

そういうカップルを見たときに起こる感情はですな、
  • 「わかるわー、それ昔俺もやったわー」
  • 「なんか共感するしちょっと羨ましいんだが、それほんと恥ずかしいからやめといたほうがえぇ」
と、共感しつつも”昔の自分を見ているよう”で穴に入りたくなるわけです。
だからですね、結局のところ「イタい」っていうのは、カップルのことを言ってるんじゃない。実際のところ痛んでいるのは発言者本人の心なのでした。
 
できるなら、この視点を提供してあげたい。いちゃこらぶっこいてる彼女だって、10年後には同じことはやらないでしょう。今だからするのです。社会の大きさや社会の弾力を感じてみたいからするのです。そして、「あぁ、昔の私と同じことやってるカップルがいる。恥ずかしい」って思う日がきっとやってくるはずなのです。たぶん。

僕らにだって、イタいと思われることはある

上にも書きましたが、彼女もいずれ気づくでしょう。
  • 他の人に見せびらかしたって、自分の気持ちは何も満たされないこと
  • 永遠とは一瞬に凝縮されるものであること
  • 自分の自信と向き合う日が訪れること
じゃあ、止めた方がいいのか?「公的秩序を乱すな!」と110番したらいいのか?いいえ、決してそうではありません。
思う存分電車内で痴漢やってみろ、と言いたいわけです。誰にとってもそうですが「知っている」「理解している」は違うのです。
すげーまずいよ、と言われたくさりかけのリンゴも、食べてみなければそのまずさは分からないわけです。それと一緒で、経験や視点ってのは一回体験してみないと分からないわけです。

将来の自分のために。行きたいところには行こう。したいことはしよう。

本当にやりたいこと、本当にしたいこと、本当になりたい自分ってのは、こうやって見つけていくものだと思います。
時には人に「それイタいなー」って思われることでも、やらないよりやった方がいいのです。たまたま、その行為が常識的に責められえるものであった、というだけです。だから周りの”オトナ”はやっきになっていうわけです。
「やっても無理だから、やめときな」「迷惑だから、やめときな」「怒られるから、やめときな」ってね。
人の心に深く傷を負わせることはやるべきではありません。ですが、笑って済ませられる程度の事であればどんどんやっていくべきだと思います。
ホントになんでもやる人って、多分「チャレンジ」とか「挑戦」とか、こんなことすら考えず、やります。深いこと考えず、やります。人の体さわさわしてます。笑
例えがわるいかもしれないけど、人の目は気にするなってこと。
 
さよーなら。

藤田晋すげぇ。の理由

フィードバックをする難しさ

個人的な経験の還元の話。還元ってのはつまり「人に何かを教えたり、人に何かを伝えたりする話」です。

個人的な経験を人の学びにしてもらう場合、全てを体系的にかつ意味づけをして話す必要が出てきます。出てきますよね?だって時系列に物語が進んだところで、教訓って何?この人何がいいたいの?ってなりますから。起こったことの全てを話すのではなく、必要な部分を抜き出して再構築することが重要なわけです。

たぶんこれって認知科学とかが関係してくる話だと思うんだけど、メモ程度に記録しておく。 

フィードバックできる経験は完結したものに限る

だからこそ、完結していない出来事を人に話すべきではないと考えています。

完結していない話を人に話すことで、認識が生まれてしまう。この認識は簡単には変えられません。

スティーブジョブズは言いました。「点と点が将来線で繋がるように信じなければならない」と。

点である経験をアウトプットすることで、点が固定化されてしまい、線で繋がらなくなってしまう。

藤田社長が進撃の巨人であり続けられる理由

藤田社長は過去の経験しか話しません。過去の経験というのは、自分の中で一段落した経験ということです。「いまこれをしています」とか「こうなったらいいな」ってことを話しません。だから進み続けられる。成長し続ける。

ということなのかなと。

 

 

 

 

 

 

 

根本的な自信を持つ方法は〇〇ること。

何かにチャレンジする原動力

現代には、情報が溢れています。個人的には、批評家となるよりも、自分の言葉で自分の体験を語れる人間のが価値が高いと思うんです。どうでしょうか。

もしそうだとすれば、PCの前で戦略を練るよりも実際に行動することの方が時間の有効な使い方と言えるかもしれません。

そうなると「やれるだろうか」「やれないだろうか」と悩む時間はできるだけ減らしたい。「やれる!」と前向きにがんばれればいい。だけども、現実そうもいかない。

現実問題、0から

実際は、私達は0から始めるしかありません。

自信があるとかないとか、実際どうでもいいんですけど、自信のあるなしって、新しいことやるときに向き合わざるをえない。自信のなさをひきずったままやると「自信のない自分」のイメージがむちゃくちゃ邪魔をする。

んで「やっぱり無理だ」「元通りの方がいいや」っていう話になって、せっかくのチャンスを無駄にしてしまうと思うんですね。

自信の2分類

自信って、

  • 根拠のない自信(やったことないけどできる)
  • 帰納法的な自信(やったことあるからできる)

との2つがあると思うんですね。

カラスで言うと

  • 白いカラスだっているぜって人
  • 黒いカラスならいるぜって人

くらいの違いがある。「だって」「なら」の違い。

新しいことでもガンガンできるぜ!って人はなかなかいないけど、やったことからボチボチできるぜ!ってのは誰にでもある。

要は、邪魔をしてくる自信ってのは限定的それを如何にかいくぐるか。

解決法は、人と話すこと。同じ空気を吸うこと

人から自信を貰え

一番早い方法は「できるよ。やったことあるし」って言う人と話すこと。そしてその人の空気感を感じること。自信のおすそわけをしてもらうって感じ。

例えば、「白いカラス」がいるかもしれない、とはふつうは思わないだろうが、白いカラスの写真を見れば「あ、いるのかもしれない」と思う。でも、何かを人間の状態を目標とする以上、つまり目標の形式が“状態”である以上、その状態に既になっている人と話をし、話す言葉・視点・感情・行動を見てみるのです。すると、現実感を持ってその状態をイメージできるようになる

0からのスタートの人には、これが十分すぎるほどの自信になると思う。

自信の抽象度が上がれば、まねしなくてよくなる

さて、この話にはおまけがあって「前もやってできたから」ということを積み重ねていくと、「前も他のことをやってできたから、次これをやってもできるだろう」という自信がつく。これを個人的に自信の抽象度をあげる、と呼んでいる。

まぁつまり、緑のキリン赤いヒヨコもいたんだし、白いカラスもいるだろうって思えるってことです。そうなったらスーパーサイヤ人ですね。

うまくいかない?そんなときのための処方箋

一休さんの遺書「困ったときに開けよ」に書いてあった一言

“案ずるな。何とかなる”

自分はダメ人間だ、死にたい…そんなふうに悩んでいるあなたにとって、これは大前提です。

根が真面目なのです。真面目なのはいいことなのですが、生きている以上、ダメなことはあります。いいこともわるいことも、自分が生きた軌跡です。困ったときも死にはしない、くらいの気持ちをもって、ゆったりいきましょう。

具体的に箇条書きにします。

行動と言動に責任を持とう。ピリッとした緊張感が、自分を高めてくれる。
行動や言動は、あなた自身を表すものです。過去の行動は自分のしたことです。そして、未来の行動は自分次第なのです。ここがポイントです。

完璧主義は卒業。
「完璧」なんてありません。しょせん、自分の作り上げた幻なのです。
自分の予想のつかない結果はしばしば起こるものだし、その予想外こそ、自分を成長させてくれるものではないでしょうか。完璧という見えない壁に翻弄されるのは、もう終わりにします。

自分による、自分のための評価軸を持つ。
他人の意見を決めるのは、過去の自分です。他人の評価はお金と同じく、あれば便利ですが、それは自分を幸せにはしてくれないものです。
そしてどんなときも、今の自分は今の自分が決める。この原則は決して揺るぎません。

自分を絶対的に信頼してくれる人を大切に。
世の中には自分からみて、3パターンの人がいます。
絶対的に自分を信頼してくれる人、全て拒絶してくる人、そしてどちらにもつく人です。
どんなことがあっても信頼してくれる他者の存在は、自分にとってかけがえのない大切なもの。必ず一定数いるはずですから、彼ら彼女らの存在に感謝します。
そして、どうしてもウマの合わない人もいますが、それは誰のせいでもなく、自然の摂理です。

自分だけの約束ノートを作ろう。
自分に対する信頼感を、左脳で高めていく作業です。どんな小さなことでも、自分とした約束を書き留め、守った約束も、守れなかった約束もチェックします
守った約束は、自分への信頼を高めてくれることでしょう。

「したくないけどすべきこと」に向き合おう。
物事を3方向のベクトルーすべきか、したいか、できるかーの3つの観点から眺めます。
すると、自分の行動原理と結果を整理することができます。
「したくないけどすべきこと」は淡々と行うのがポイントです。これが、したくないけれどすべきことへの向き合い方です。自分を自分たらしめてくれるのは「したいこと」です。ここに意識を使いましょう。

To doリストは、繰り越さない。
守れなかった約束は、本当に自分にとって大切なもので守るべきだったのかどうか、もう一度振り返りましょう。
意外と、どうでもいい約束ごとに縛られているものです。
そしてそれが守るべき約束であれば、再度新たにTo Doリストに加えます。

想像力は、ワクワクするものにつかう。
面倒くさい、嫌な気持ちになることをシミュレートしても、したくない気持ちが増すだけ。しなくてはならないことには素早くとっかかり、想像力はワクワクすることに使います。

今にフォーカスする。
未来の自分に希望は持っても、期待はしないようにします。未来の自分は、スーパーマンではないし、全てを解決してくれるわけではありません。
何よりもまず、今の自分が大切なのです。今を大切に生きることです。
過去も同様です。過去は変えられません。過去とは一般に事実として認識されるものだからです。この前提が変わるのはまだまだ先のことです。
仏教の教えでは、過去も未来もありません。時間というのは、物事を分かりやすくするために人間が作り出した概念です。これは余談ですが、実は過去も未来も、今ここにしか存在していないとしたらどうでしょう。

部屋を片付けて、シンプルに生きよう。
具体的な方法論です。長年来ていない服、随分聞いていないCD、いつ読むかわからない本は捨てましょう。そして、心地のいい居場所をつくりましょう。
どうでもいいものに使っていたお金や時間・空間を、本当に自分の心地よいもので満たします。

直感を育てる。
もし部屋が散らかっていて、片付けられないほどなら、旅に出てみましょう。
時間が取れなければ落ち着けるカフェやバーに行ってもいいし、ホテルに一泊だけしてもいい。一流の芸術に触れてもいい。
自分の意識が汚い部屋に居ついてしまっているなら、お金をつかって心地いい空間を先に体感するのです。
日常を離れて、本当に自分がワクワクするものを探すこと。過去の最適化は、自分を幸せにはしてくれません。だからこそ、感性を高めることが、自分の人生を高めてくれるのです。

人と比較したときに得る幸福感は、泡のように消えると覚えておく。
幸せには2種類あります。比較した上での幸せと、そこにあるものに感謝することで生まれる幸せです。
比較して自分の方が優れている、と感じて生まれた幸せは、他にさらに優れているものとの比較で簡単に消え去ります。
本当の幸せは、実はすでに持っています。あなたが今、気づいていないだけで。

おわりに
毒矢の例え、という逸話があります。
「あの世はあるのでしょうか?」という問いに、釈迦が答えたものです。
「毒矢に射られたとき、どうするだろうか。毒の成分を分析するか?矢が射られた方向を分析するか?そんなことしていたら死んでしまうよね。それよりも先にすることは何か。そう、毒矢を引き抜くことだ」と。
人生は毒矢に射られた自分のようなものです。死後の世界はあるかもしれないし、ないかもしれない。それでいいし、どっちでもいいじゃない。
人生は短いのだから「今」を生きなさい。毒矢を分析するよりも先にやることがある。そういうふうに私は捉えています。

うまくいかない、だめだと感じている人は、おおよそ今の自分が心の中では心地よいと感じているように思います。
「そんなことない!」という声もありそうですが、そうでなければダメ人間でいる理由はありません。

何が人から与えられた思想で、何が自分なのか。そういうことを追求していくことが、「生きてきてよかった」と呟いて死ぬ人の生き方だと考えています。

感動する人、感動させる人の違い

ハレ―ケ

ハレ、ケ といった区別方法があります。これはもともと民俗学者の柳田正が提唱した言葉。ハレ=通過儀礼、ケ=日常といった対照的な捉え方です。

民俗学の分野まで踏み込むと、ハレとケの境界線があいまいになってきた、という時間軸的比較にもなりますが、ここはあえて適用対象を現代社会に絞り、さらに適用性を高めたいと思います。

もともとハレとは、七五三や成人式、卒業式、結婚式といった「非日常」のもの。ケとは、日常のものを指します。

ハレというのは、我々にとってとても特別なものです。結婚式、卒業式。どれも様々な思いが溢れてくるイベントです。私達はここで涙を流したり、永遠の愛を誓ったり、感動をおぼえます。そして思うのは「あぁ、感動っていいなぁ」ということ。

空間に酔う

一種酔った状態というのは、その言葉の通りアルコールを飲んだときみたいな浮遊感を覚えるものです。そして、なんとなく決断します。「あぁ、がんばろう」「大事にしよう」「一生忘れない」と。

次の日から、日常が始まります。そしてこう思うことは多いのではないでしょうか、「あれ、自分変わらないな」と。決意をあらためたはずなのに、日常に戻ってしまえば、戻ってくるのはほかでもない今までの自分なのです。

マザーテレサの言葉

マザーテレサの言葉で、以下のものがあります。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから

 “思考そのものが、運命である” そのことを彼女は言っています。思考が幸せなものであればそれは幸せな運命に繋がると。反対に思考がネガティブなものであれば、それは不幸せな運命に繋がるということを言っているのでしょう。ナポレオンヒルの成功哲学にも通じるものがあります。

この思考というのは、ハレ=非日常の際の思考ではありません。我々が日常でものを感じ、考えること。それを言っている。ハレとケの比率は、圧倒的にケが多いものです。思考とは、ケ=日常において考えるものなのです。

特別な日は、日頃の自分の集大成

周りを見渡してみて、将来大成するだろうな、という人と、そうでない人がいます。何が違うかと言えば、一貫性があるかないかだと感じました。つまり、ケの時の延長線上でハレをとらえているか、そうでないか。

結婚式でも、卒業スピーチでも、ハレのときだけいいかっこをする人はそれまで。でも、ケのときの延長線上にハレがある人というのは、ぶれない軸を持っている=感動を生み出せる人間であると考えました。

感動する人間、感動させる人間

感動というのは、基本的には受け身なものです。何かについて、感動する。何かを感じ、心を動かされる。でも、感動させるというのは簡単なことではありません。きっとその人にしかできないこと。その人の育ってきた環境、その人がやって初めて意味のあること。人間はプラスなことだけではありません。プラスなだけ、マイナスがあります。今までの時間なり思考なりのリソース配分によって、今の自分が決まっています。その自分でしかできないことがあるのです。だから人を感動させるというのは、一貫性から生まれるものなのだと思う。

ハレとケで重要なのは

人間形成、人生的な観点から言えば、重要なのはケです。明らかに、ケの方が日数が多いからです。今日言いたいことはたった1つで、ハレの雰囲気によってるだけでは、酔って終わってしまう、ということ。

ハレでもし感じたことがあるのなら、それをケにもってくる努力をすること。そしてハレにおいては一歩引いた目で見るか、もしくはハレだと割り切ることが必要だということ。

最後に、映画やドラマなども1つの非日常です。あれを見て感動する「だけ」の人間は、人に対して価値を発揮することは難しい。常に、自分という存在は唯一無二のものであるという考えのもと、対象と向き合っていくことが大事なのだと思います。