自己啓発本に頼るのではなく、「本当の意味で」自分を変える方法
"自己啓発本"はあなたに幻想を見せる
高校生のとき、僕は自己啓発本が好きだった。日頃ビジネスなどしない。「〇〇倍成果を出すための読書術」とか「人生変えよう」みたいなよくある自己啓発本。それを駅前の本屋で買ってきては、何冊も読んでいた。
お察しのとおり、僕はただ本を消費していた。投資ではなく、消費だった。自己啓発本を読み、その場限りの優越感に浸っていた。その結果どうなったかというと、口ばかり達者で行動するのが怖い人間になっていった。
自己啓発とは麻薬のようなものだと思う。読後は成功した気になり、ハイになる。何かを成し遂げた気になる。でも、本当の自分は本を読む前と、何一つ変わらない。少しばかりの優越感は、副作用として自信を奪っていった。
つまるところ、自己啓発本は消費だった。憧れを抱いていた僕を優しくなだめ、ときには叱咤し、ハッピーエンドに導いてくれた自己啓発本。彼らは僕を思うようには変えてくれなかった。
「自己啓発にはすべておなじことが書いてある」
大学1年生の冬。僕は塾講師のアルバイトをしていた。校舎は、東京地区の中でも地域の拠点となる大規模な校舎だった。そんな拠点を率い、皆から畏れられ、慕われる塾長がいた。彼はやり手だった。頭が切れ、リーダーシップがある。若くして経営幹部になることを有望視されていた。そんな彼から、自己啓発本に関する考察をきいたことがある。
「君は本読むのとか好きなの?」
「好きです。自己啓発とか好きで読んじゃいますね」
「あーそうなんだ。自己啓発本は20代で読みつくした。だって、書いてあることはどれも同じなんだもん。そのことに気付いて、読むのやめたよ」
「は?あ、そうなんですか?」
「そう。ふふふ」
そういって、彼は書類チェックに戻った。…いや、この場で教えてくれよ!と思った。ただ「そんなものか」と思うばかりで、何も言うことがなかった。
仮にそのときに教えられたとしても、当時の僕は理解できなかっただろうと思う。
自己啓発の、何が同じ?
その日から、ある問いが僕の中での課題となった。
なぜ、人は自己啓発本を読んでも変わらないのか?
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5年が経った。
いまの僕がタイムマシンを使って過去の自分に耳打ちしてあげるとすれば、次の2つだ。
- すぐに消える自己啓発本たちの本質は「変わりたくないけど変わりたい顧客へ向けた成功体験ビジネス」であること
- 本来の意味で自分が変わるとは、モノを見る視点が変わる(抽象度が上がる)ことであること
つまり、自己啓発本は「人が変わる」とはほど遠いもので、むしろ「変わりたくない」人を対象にしたビジネスだということ。
では人が変わるとは、どういうことなのか。それが2の「視点変化/抽象度上昇」になる。
これについて、幾人かのオピニオンリーダーの考えに共通点が見つかった。
「あっと驚く未来を、ストーリーにして描いてみれば?」
「そうしたら、今まで見えなかったものに気付くはずさ」
「そうだね、たとえば『視点の高い、より根本的な問題点』が見えるはずだよ」
「現状では達成しえない目標を持つことで、スコトーマ(盲点)をはずすこと」
「今までには気付きもしなかった方法が見えてくる」
「これがコンフォートゾーン(あたりまえのレベル)を引き上げるということ」
これらを総括すると「理想の自分をまず思い描け。それに到達するには理想の自分の視点を先に得よ。現状から未来へのストーリーを描け」というカンタンなステップにまとめられる。
だから本当の意味で自分が変わるとは、自分の物を見る視点が変化するってことであり、世界が変わるってこと。
じゃあそのためにどうしたらいいの?ってことに関しては、ぜひ上記の人たちのありがたい言い分を聞いてみてほしい。
神田昌典フューチャーマッピング公式:FUTURE MAPPING | futuremapping.com
もしかすると、イエスの教え「求めよ、さらば与えられん」すら理想の自分ありきってことか?と思えてくるほど。
名前も知らないお姉さんに「営業」を教えてもらった話
携帯ショップで販促のバイト。タブレットとフォトパネルを売っていた。
10秒で、1個売れた
カウンターで手続き中の、とあるお姉さんに話しかけたのだった。
訳の分からない売れ方をした。
顔も名前も分からないお姉さんから、「営業」を教えてもらった。
僕がやっていたのは、押し売りだった
スーパーマンはいない。けど、確かにお姉さんは僕のスーパー(ウー)マンだった
次はぼくの番(おまけ)
「痛いヤツ」の心理学
いちゃいちゃカップル。
感じる違和感
イタいのは見る側の心
- 「わかるわー、それ昔俺もやったわー」
- 「なんか共感するしちょっと羨ましいんだが、それほんと恥ずかしいからやめといたほうがえぇ」
僕らにだって、イタいと思われることはある
- 他の人に見せびらかしたって、自分の気持ちは何も満たされないこと
- 永遠とは一瞬に凝縮されるものであること
- 自分の自信と向き合う日が訪れること
将来の自分のために。行きたいところには行こう。したいことはしよう。
藤田晋すげぇ。の理由
フィードバックをする難しさ
個人的な経験の還元の話。還元ってのはつまり「人に何かを教えたり、人に何かを伝えたりする話」です。
個人的な経験を人の学びにしてもらう場合、全てを体系的にかつ意味づけをして話す必要が出てきます。出てきますよね?だって時系列に物語が進んだところで、教訓って何?この人何がいいたいの?ってなりますから。起こったことの全てを話すのではなく、必要な部分を抜き出して再構築することが重要なわけです。
たぶんこれって認知科学とかが関係してくる話だと思うんだけど、メモ程度に記録しておく。
フィードバックできる経験は完結したものに限る
だからこそ、完結していない出来事を人に話すべきではないと考えています。
完結していない話を人に話すことで、認識が生まれてしまう。この認識は簡単には変えられません。
スティーブジョブズは言いました。「点と点が将来線で繋がるように信じなければならない」と。
点である経験をアウトプットすることで、点が固定化されてしまい、線で繋がらなくなってしまう。
藤田社長が進撃の巨人であり続けられる理由
藤田社長は過去の経験しか話しません。過去の経験というのは、自分の中で一段落した経験ということです。「いまこれをしています」とか「こうなったらいいな」ってことを話しません。だから進み続けられる。成長し続ける。
ということなのかなと。
根本的な自信を持つ方法は〇〇ること。
何かにチャレンジする原動力
現代には、情報が溢れています。個人的には、批評家となるよりも、自分の言葉で自分の体験を語れる人間のが価値が高いと思うんです。どうでしょうか。
もしそうだとすれば、PCの前で戦略を練るよりも実際に行動することの方が時間の有効な使い方と言えるかもしれません。
そうなると「やれるだろうか」「やれないだろうか」と悩む時間はできるだけ減らしたい。「やれる!」と前向きにがんばれればいい。だけども、現実そうもいかない。
現実問題、0から
実際は、私達は0から始めるしかありません。
自信があるとかないとか、実際どうでもいいんですけど、自信のあるなしって、新しいことやるときに向き合わざるをえない。自信のなさをひきずったままやると「自信のない自分」のイメージがむちゃくちゃ邪魔をする。
んで「やっぱり無理だ」「元通りの方がいいや」っていう話になって、せっかくのチャンスを無駄にしてしまうと思うんですね。
自信の2分類
自信って、
- 根拠のない自信(やったことないけどできる)
- 帰納法的な自信(やったことあるからできる)
との2つがあると思うんですね。
カラスで言うと
- 白いカラスだっているぜって人
- 黒いカラスならいるぜって人
くらいの違いがある。「だって」と「なら」の違い。
新しいことでもガンガンできるぜ!って人はなかなかいないけど、やったことからボチボチできるぜ!ってのは誰にでもある。
要は、邪魔をしてくる自信ってのは限定的。それを如何にかいくぐるか。
解決法は、人と話すこと。同じ空気を吸うこと。
人から自信を貰え
一番早い方法は「できるよ。やったことあるし」って言う人と話すこと。そしてその人の空気感を感じること。自信のおすそわけをしてもらうって感じ。
例えば、「白いカラス」がいるかもしれない、とはふつうは思わないだろうが、白いカラスの写真を見れば「あ、いるのかもしれない」と思う。でも、何かを人間の状態を目標とする以上、つまり目標の形式が“状態”である以上、その状態に既になっている人と話をし、話す言葉・視点・感情・行動を見てみるのです。すると、現実感を持ってその状態をイメージできるようになる。
0からのスタートの人には、これが十分すぎるほどの自信になると思う。
自信の抽象度が上がれば、まねしなくてよくなる
さて、この話にはおまけがあって「前もやってできたから」ということを積み重ねていくと、「前も他のことをやってできたから、次これをやってもできるだろう」という自信がつく。これを個人的に自信の抽象度をあげる、と呼んでいる。
まぁつまり、緑のキリンや赤いヒヨコもいたんだし、白いカラスもいるだろうって思えるってことです。そうなったらスーパーサイヤ人ですね。
うまくいかない?そんなときのための処方箋
一休さんの遺書「困ったときに開けよ」に書いてあった一言
“案ずるな。何とかなる”
自分はダメ人間だ、死にたい…そんなふうに悩んでいるあなたにとって、これは大前提です。
感動する人、感動させる人の違い
ハレ―ケ
ハレ、ケ といった区別方法があります。これはもともと民俗学者の柳田正が提唱した言葉。ハレ=通過儀礼、ケ=日常といった対照的な捉え方です。
民俗学の分野まで踏み込むと、ハレとケの境界線があいまいになってきた、という時間軸的比較にもなりますが、ここはあえて適用対象を現代社会に絞り、さらに適用性を高めたいと思います。
もともとハレとは、七五三や成人式、卒業式、結婚式といった「非日常」のもの。ケとは、日常のものを指します。
ハレというのは、我々にとってとても特別なものです。結婚式、卒業式。どれも様々な思いが溢れてくるイベントです。私達はここで涙を流したり、永遠の愛を誓ったり、感動をおぼえます。そして思うのは「あぁ、感動っていいなぁ」ということ。
空間に酔う
一種酔った状態というのは、その言葉の通りアルコールを飲んだときみたいな浮遊感を覚えるものです。そして、なんとなく決断します。「あぁ、がんばろう」「大事にしよう」「一生忘れない」と。
次の日から、日常が始まります。そしてこう思うことは多いのではないでしょうか、「あれ、自分変わらないな」と。決意をあらためたはずなのに、日常に戻ってしまえば、戻ってくるのはほかでもない今までの自分なのです。
マザーテレサの言葉
マザーテレサの言葉で、以下のものがあります。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから
“思考そのものが、運命である” そのことを彼女は言っています。思考が幸せなものであればそれは幸せな運命に繋がると。反対に思考がネガティブなものであれば、それは不幸せな運命に繋がるということを言っているのでしょう。ナポレオンヒルの成功哲学にも通じるものがあります。
この思考というのは、ハレ=非日常の際の思考ではありません。我々が日常でものを感じ、考えること。それを言っている。ハレとケの比率は、圧倒的にケが多いものです。思考とは、ケ=日常において考えるものなのです。
特別な日は、日頃の自分の集大成
周りを見渡してみて、将来大成するだろうな、という人と、そうでない人がいます。何が違うかと言えば、一貫性があるかないかだと感じました。つまり、ケの時の延長線上でハレをとらえているか、そうでないか。
結婚式でも、卒業スピーチでも、ハレのときだけいいかっこをする人はそれまで。でも、ケのときの延長線上にハレがある人というのは、ぶれない軸を持っている=感動を生み出せる人間であると考えました。
感動する人間、感動させる人間
感動というのは、基本的には受け身なものです。何かについて、感動する。何かを感じ、心を動かされる。でも、感動させるというのは簡単なことではありません。きっとその人にしかできないこと。その人の育ってきた環境、その人がやって初めて意味のあること。人間はプラスなことだけではありません。プラスなだけ、マイナスがあります。今までの時間なり思考なりのリソース配分によって、今の自分が決まっています。その自分でしかできないことがあるのです。だから人を感動させるというのは、一貫性から生まれるものなのだと思う。
ハレとケで重要なのは
人間形成、人生的な観点から言えば、重要なのはケです。明らかに、ケの方が日数が多いからです。今日言いたいことはたった1つで、ハレの雰囲気によってるだけでは、酔って終わってしまう、ということ。
ハレでもし感じたことがあるのなら、それをケにもってくる努力をすること。そしてハレにおいては一歩引いた目で見るか、もしくはハレだと割り切ることが必要だということ。
最後に、映画やドラマなども1つの非日常です。あれを見て感動する「だけ」の人間は、人に対して価値を発揮することは難しい。常に、自分という存在は唯一無二のものであるという考えのもと、対象と向き合っていくことが大事なのだと思います。