人とぶつかることで学ぶ。外部環境と自分の姿勢

多様性ってそんなに大事かな、と思うのだけれど。

 

「多様性が大事だよ」なんて、そう言われるようになったのはいつ頃だろう。少なくとも、お台場にダイバーシティが出来るまでは、ダイバーシティなんて言葉は知らなかった。

 

Webでダイバーシティ関連の書籍を探しても、「ダイバーシティの研究」とか「ダイバーシティのこれから」みたいな本しか見つからない。なんだかとりあえずダイバーシティって言葉だしとけ!っていう私立文系大学生のレポートのようなものを感じますが、これってつまりダイバーシティ”という言葉がまだまだ浸透していないってことなんじゃないかな。世間の中で、共通認識がとれた段階ではないってことだよね。

 

 

個人的には、ダイバーシティって言葉そのものは、今後当たり前になる社会を指し示す言葉であって、あくまで環境的なもの。俺らが考えなきゃいけないことは、その先にあるリーダーシップだと思うんだ。だって、個人でどうなりたいか、でしょ。明日は雨が降りそうだ、これがダイバーシティの話。それなら傘を持っていこう。この傘の部分を、俺らは考えなきゃいけない。

 

ある大学を知っているんだけど、そこではグローバル人材をたーくさん輩出している。本屋でも英語で会話(!)するし、日本語より英語の方が得意な人も少なくなくて、留学経験だって当たり前。そんな学校。でも、その大学に優秀な人が多いのか!?というと、答えは分からない。留学経験、みたいなザ・グローバル体験は、リーダーシップの十分条件でもなければ、必要条件でもない。なぜなら、その環境での行動こそが大事だからだ。

 

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今住んでいる寮では、長期留学は認められていない。なんて古い寮なの!って思うかもしれないけど、でも本当のこと。学年間の上下関係もあるからね。学年でイベントを企画しなきゃいけない事情なんかもあって、認められてない。認められていないけど、ダイバーシティに対応できる人は多い、と思っている。英語の壁はあるけどさ。

 

だって、寮生同士、同じ場所に住んでいるんだ。部屋には鍵もかけてない。すっげー大音量で音楽流すやつ、タバコ吸うやつ吸わないやつ、飲むのが好きなやつ嫌いなやつ、色んな人がいる。タバコ吸ってる人に対して、あるいは音楽うるさい人に対して、「おい、タバコ吸うなよ部屋に煙はいるんだよ」とか「音楽うるせーよ!笑」とか、そうやって少しでも行動に移したり、ぶつかりあうことの積み重ねなんだと思う、ダイバーシティの中で培うリーダーシップってのは。

 

きっと、考えることが同じような人とだけ付き合っている人、自分以外の考えを受け付けない人にとっては、この世は多くの愚痴と、そして慰め合いで満ちていることだろう。でも、そんな人生は生きたくない。

 

寮には理系や文系含め多様な人材がいる。一緒に企画を進める機会もある。寮じゃなきゃ、仲良くならなかっただろう人間と仲良くなる。一緒に酒を飲む。冗談を言い合う。お互いの悪いところを言い合う。将来のことについて語る。

 

思うにきっと、どんな世界だって泥臭い。目の前の世界に嫌気がさしても、みんなが主役の世の中だもの、泥臭いものなんだ。楽園のような世界は、人間が作り出した作品の外には存在しない。英語を使う環境か、日本語を使う環境か、泥臭さは変わらない。言語、それだけの違いだ。

 

もちろん寮の限界もある。長期留学や長期休学ができない。地元が同じ人たちが、同じく東京近辺の大学に出てきている。そういう意味では、ダイバーシティと言ってもたかが知れているのかもしれない。留学でよくいうような、外国人と国について語り合うなんてこともない。だから、日本を客観的に知ることも少ないだろう。宗教観の違いに触れることもない。

 

正直にいえば、今年、寮を卒業する人間としても、寮を出るという選択は合理的な選択だったと感じている。実際、住居を移すことも考えた。一度や二度ではない。今でも、寮を出たってよかったと思ってる。それなのに、いまだに寮に残っている理由、そしてその選択を全く後悔していない理由は、寮が単純に楽しくなったからだった。『外に出て世界を知る』…それも楽しそうだと思ったけれど、なによりも寮の中が楽しかった。というか、自分の姿勢を変えたら、楽しくなった。年から年中ある企画、寮の運営、風土の取り締まり、ルール設定、年長者とのコミュニケーション、、、そんな一見めんどくさいような寮という環境を目の前に、自分から寮の中心に入っていった。台風から逃れようと思ったけど、中心に向って、懐に飛び込んで行ったら、以外にも青空が広がっていた。そんなわけだった。

 

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「懐に飛び込む」。これは、人生において大事なことだと思っている。よく「自分はここにいる人間ではない。今いる世界が何か違う」と感じる人がいる。俺自身何回もそう思ったことがあるし、後輩にも、未だ何をやるか決めかねている人間がいる。

 

それで、外に出てみる。彼に伝えているのは、きっと同じ壁にぶつかるだろうということ。それは、壁にぶつかる原因をはき違えてしまっているからだ。現状の環境に違和感を抱き、見えない壁にぶつかってしまうのは、環境のせいではない。実は自分のせいだ。本当は、一度じっくり自分と向き合うべきなのだが、それに気付くまでにはだいぶ、時間がかかる。

 

電車に乗っていて「車両がなんだか臭い。誰が臭いんだよ。もしくは電車自体が臭いの?」と移動したものの、まだまだ臭い。本当は、臭いのって、自分の洋服のにおいだったという話。そして、それに気付くのに時間がかかる、っていう、バカみたいな話。でも、そんなバカみたいな話を、果たしてバカにできるだろうか。

 

 

高杉晋作も言っている。 

おもしろきこともなき世におもしろく

この世の中自体が“面白くない世の中”なのだとしたら。面白いものは、自分から見つけに行くしかない。そう、すみなすものは心なのだから。