自分はどこにいるのか。

自分が自分でいられるのは他人<ひと>のおかげだと思う。

 

 

人に認めてもらったとき。

人に褒めてもらったとき。

人と笑いあっているとき。

人の役に立てたとき。

 

そんなとき、「よかったなぁ」と思う。

きっとこの感情って人間しか持っていない。

 

動物には、過去も未来もないんだっていう話を、どこかで読んだことがある。

動物には、今目の前にある現実しか見えていないという。

だから、将来のために今がんばるというのはすごく人間っぽい思考だそうだ。

貯金だとか、勉強とか、そういうもの全部ね。

 

うーん、すごく難しいのだけど。

確かに、そういう思考は効率的だ。

でも行き過ぎると、今の自分を殺してしまいかねないと、本気でそう思っている。

 

人間だって動物だ。ベースは動物だ、これは間違いない。

人間には縄張り本能があり、人間には快感を感じる回路が備え付けられていて、人間以外の動物と、一緒だ。

 

整理しておきたい。

自分を認める思考には、2段階存在するという事を。

 

1段階目。あるがままの肯定。

自分がどうだとか関係ない。自分のステータスなんか関係ない。

ただ、自分がいるだけでいい。

解釈なんてものは、人間が作り出した便宜上の現実だ。

つまるところ解釈っていうものは、現実であり現実でない、とそう思っている。

だから、あるがままを肯定する。無条件の愛。

これは母親から与えられることが多いと思う。

生まれてからTeenAgeになるまでに育まれることになると思う。

まずはこの欲求。この欲求があれば、セーフティーネットにはなる。

 

2段階目。社会的欲求。

社会的自分が、生きているという実感を得ること。

つまり、人に認められたいという欲求。

自分があるだけじゃ、満足できない。

自分がいるだけじゃ、満足できない。

あるだけ、いるだけじゃなく、人から認められること。

これによって生きているという実感に合わせて充足感を得る。

 

この2段階の分け方、MECEでもなんでもないのだが…まぁ続ける

 

2段階目については、非常に多くの人がこの欲求に支配されていることと思う。

Facebookを創立したマーク・ザッカーバーグハーバード大学へ進学した当時の彼が、モテたさにスタートアップしたというのは有名な話。

ちなみにSocial Network(映画)で描かれている内容は、利益をどう上げていくのかをもっとクローズアップしてほしかったけど、それはまた別の話。

 

2段階目の欲求については、大きな原動力になる事は間違いない。

けれど、ここには本当に大きな落とし穴がある。

 

ザッカーバーグ氏の場合、モテたいからFacebookを作ったとしよう。

そして、彼が社長となり、億万長者となり、果たして現在、その欲求が満たされているのか…というと違うんだと思うのね。

きっと彼の場合、自分がモテたいというのは着火剤に過ぎなかった。その着火剤にて彼はユーザーの心を掴んでいったと思うの。いわば彼の原体験といったところだろうか。それとは別に、彼はITにおいて未来像みたいなものを透視していたように思えて仕方がない。

 

人は、人に憧れる。

人に憧れて、あんな人になりたい、こんな人になりたいって想いを抱く。

当たり前だけど、その人にはなれない。あなたは、あなたでしかないから。

その人だって、いくら望んでも、あなたのようにはなれない。

 

「〇〇のようにモテたい」いくらそう望んでも、あなたがその人になる時期はやってこないだろう。きたとしても、その人に擬似的に似たモテ方をする事となる。そのときになって思うだろう。「あれ、これって自分が思っていた幸せなのかな」と。

 

守・破・離という言葉がある。

 

第1段階。憧れる。

憧れて、努力もしてきた、成果も上がってきた。

だいぶ様になってきたかな、と思う。

俺は変わった。変わったんだ。これで人生変わるはずなんだ、ってね。

でも、思う。あれ、でも当時思い描いていた自分と違うぞ、とこうなる。

 

第2段階と第3段階の違いはよく分からないけど、とにかく自分なりの型をつくる。

ここで始めて気付く。

あぁ、自分は変わってなんかいない。自分は自分なのだと。

 

 

人は、人に憧れて、成長をする。

長嶋茂雄に憧れて、バットを振る。

バットを振って、何が自分と違うのだろうと研究する。

ちょっとは努力して、ちょっとは様になった。

でも、今の自分は、長嶋茂雄とは違う。

でも、それでいいんだ。自分は自分だったのだと安心する。

 

 

一部の天才と呼ばれる人たちが、表舞台に立つ。

俳優にしてもそうだ。

歌手にしてもそうだ。

ビジネスマンにしてもそうだ。

スポーツ選手にしてもそうだろう。

彼らに憧れて、そして名もなき人となる人が大勢いる。

でも、1人1人にとって、自分の人生は、語り継がれることのない、自分だけのストーリーだ。もっと誇っていい。

 

人に憧れて、人に認められて、自分はどこにいったんだ、自分はどこにいるんだろうなんて悩むことなんか何もない。あなたはそこにいるじゃないか。君はそこにいるじゃないか。君はじゃんけんをするとき、どうやって出す手を決める?グーを出そう、と思ったらグーを出すじゃないか。君は君だ。

 

櫻井和寿に憧れて、人生一生フリーターでいいというバンドマン。

接客のプロを目指して、就職して、日々奮闘しているホテルマン。

将来への漠然とした不安を持ち、ひとまず食品業界に入った学生。

 

1人1人が人生に関してこんな面倒くさく考えているとは到底思わないけれど、祈っている。

1人1人が幸せな人生であることを。祈ることくらいしかできないから。

 

そして、自分は自分の人生を幸せにする責任がある。

そして、周りの人を幸せにする責任が。

 

 

 

守。

まずは人に憧れる。それで、やってみる。

なんとなく、続く。

褒められる。

さらにやる。

なんとなく、形になる。

ここに立ってみた風景は、憧れていた人がみた風景と同じだろうか。

 

おそらくは、違う。

冬のソナタのロケ地にいったって、チェ・ジウがロケしたその日とは、違っているだろう。それでも、あなたはあなたの人生なのだ。

 

それでもいい。

それでいて、振り返ってみて、あぁ、自分は自分でよかったのだと振り返る。これが大事。

 

つまり、「モテたい」を動機として取り組んでもいい。

ただしそのモテたいが100%満たされるとは限らない。

それでもいいと納得して、前に進んでいく。

レビューする地点にやってくる。

Facebookを建てている。

 

そこから得られたものは様々だろう。

それが、あなたの存在ゆえのもの、ゆえに貴重。

 

話を戻すと、他人に認められたい、という動機は短期的には重要なモチベーションになる可能性はあるけれど、努力したところでそれが満たされる保証はない。

いつでも、どんなときでも、立ち帰るべきなのは、自分が自分であるということ。自分が自分としてここに存在するということ。そう、解釈さえ抜いてしまえば「ある」ということしかこの世にはないからだ。1か0の世界。そう思っている。

 

 

いい人生になるといいね。

 

 

そして、きっと、君の人生は、いい人生になってるよ。

そう、今もね。