感動する人、感動させる人の違い

ハレ―ケ

ハレ、ケ といった区別方法があります。これはもともと民俗学者の柳田正が提唱した言葉。ハレ=通過儀礼、ケ=日常といった対照的な捉え方です。

民俗学の分野まで踏み込むと、ハレとケの境界線があいまいになってきた、という時間軸的比較にもなりますが、ここはあえて適用対象を現代社会に絞り、さらに適用性を高めたいと思います。

もともとハレとは、七五三や成人式、卒業式、結婚式といった「非日常」のもの。ケとは、日常のものを指します。

ハレというのは、我々にとってとても特別なものです。結婚式、卒業式。どれも様々な思いが溢れてくるイベントです。私達はここで涙を流したり、永遠の愛を誓ったり、感動をおぼえます。そして思うのは「あぁ、感動っていいなぁ」ということ。

空間に酔う

一種酔った状態というのは、その言葉の通りアルコールを飲んだときみたいな浮遊感を覚えるものです。そして、なんとなく決断します。「あぁ、がんばろう」「大事にしよう」「一生忘れない」と。

次の日から、日常が始まります。そしてこう思うことは多いのではないでしょうか、「あれ、自分変わらないな」と。決意をあらためたはずなのに、日常に戻ってしまえば、戻ってくるのはほかでもない今までの自分なのです。

マザーテレサの言葉

マザーテレサの言葉で、以下のものがあります。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから

 “思考そのものが、運命である” そのことを彼女は言っています。思考が幸せなものであればそれは幸せな運命に繋がると。反対に思考がネガティブなものであれば、それは不幸せな運命に繋がるということを言っているのでしょう。ナポレオンヒルの成功哲学にも通じるものがあります。

この思考というのは、ハレ=非日常の際の思考ではありません。我々が日常でものを感じ、考えること。それを言っている。ハレとケの比率は、圧倒的にケが多いものです。思考とは、ケ=日常において考えるものなのです。

特別な日は、日頃の自分の集大成

周りを見渡してみて、将来大成するだろうな、という人と、そうでない人がいます。何が違うかと言えば、一貫性があるかないかだと感じました。つまり、ケの時の延長線上でハレをとらえているか、そうでないか。

結婚式でも、卒業スピーチでも、ハレのときだけいいかっこをする人はそれまで。でも、ケのときの延長線上にハレがある人というのは、ぶれない軸を持っている=感動を生み出せる人間であると考えました。

感動する人間、感動させる人間

感動というのは、基本的には受け身なものです。何かについて、感動する。何かを感じ、心を動かされる。でも、感動させるというのは簡単なことではありません。きっとその人にしかできないこと。その人の育ってきた環境、その人がやって初めて意味のあること。人間はプラスなことだけではありません。プラスなだけ、マイナスがあります。今までの時間なり思考なりのリソース配分によって、今の自分が決まっています。その自分でしかできないことがあるのです。だから人を感動させるというのは、一貫性から生まれるものなのだと思う。

ハレとケで重要なのは

人間形成、人生的な観点から言えば、重要なのはケです。明らかに、ケの方が日数が多いからです。今日言いたいことはたった1つで、ハレの雰囲気によってるだけでは、酔って終わってしまう、ということ。

ハレでもし感じたことがあるのなら、それをケにもってくる努力をすること。そしてハレにおいては一歩引いた目で見るか、もしくはハレだと割り切ることが必要だということ。

最後に、映画やドラマなども1つの非日常です。あれを見て感動する「だけ」の人間は、人に対して価値を発揮することは難しい。常に、自分という存在は唯一無二のものであるという考えのもと、対象と向き合っていくことが大事なのだと思います。